2011年御翼12月号その2

キリストに近づく

 愛の人となるには、神とキリストに愛されていることを知る必要がある。朝鮮戦争のとき、ブレネンは、戦友のスティーヴと共に塹壕 にいた。二人でチョコレート・キャンディー「スニッカーズ」を食べていたが、敵と撃ち合いが始まった。すると暗闇の中から、突然 、塹壕に手榴弾が投げ込まれ、二人の間に落ちた。後日、ブレネンが語るには、その瞬間、スティーヴはブレネンに向かってウィンク し、「スニッカーズ」を後ろに放り投げると、自分の身を手榴弾の上に投げたのだ。スティーヴは粉々になったが、ブレネンの命を救 った。朝鮮から引き上げると、ブレネンはペンシルバニア州のスティーヴの実家を訪ねた。お互い初対面であった。話しの中でブレネ ンは母親に、「スティーヴは僕のことを手紙に記したことがありますか?」と聞いてみた。母は、「はい」と答える。「手紙の中で、 スティーヴは僕を愛していると言っていましたか?」と尋ねると、母は手にしていたカップと皿を床に投げつけ、こう叫んだ。「あん たは、一人の男があんたのために命を投げ出したのに、彼があんたを愛していたかと聞くの!?」と。ヨハネ15章13 節に「友のために 自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とある。イエス様が私たちのために死んでくださったのだ。私たちは神の人間へ の愛を決して疑ってはならない。それがイエス様の十字架の意味なのだ。
 そして、自分も愛の人となるためには、心を神に向け、魂を愛なる神の霊、聖霊で満たしていただく必要がある。「祈りの本質は、静 けさの中にある」とトニー・カンポーロ牧師は言う。かつてカンポーロ牧師も、祈りとは自分の要求するリストをただ述べるにすぎな かったという。しかし神は、私たちに何が必要かは、言われなくともご存知なのだ。もちろん、フィリピ4章6節に、「何事につけ、感 謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」とあるのだから、願い事のリストを祈ることも大切である。 しかし、祈りの中心は、聖霊で満たされるためにじっとしていることなのだ。カンポーロ牧師は、朝、目が覚めると10〜15分間、ベッ ドの中で心を神に向け、時にはイエス様の名を使ってこの世的な思いを追い出し、聖霊で満たされるようにするのだという。そのとき 、イエス様のあがないの力を感じ、清められるという。そのようにして、神の愛を実践できる者となって一日を始めるのだ。 米国のある教会の役員が、月一回、教会の青年たちが老人ホームを訪れる際、ワゴン車の運転をする奉仕をしていた。ホームでは、若 者たちが老人たちのために、礼拝を行っていた。礼拝中、この役員は後ろの方でその活動を見守りながら、車いすのある老人の手をず っと握ってあげていた。ある週、いつものように老人ホームに行くと、役員は、あの老人が礼拝に出席していないことを知る。看護師 に尋ねると、その老人は昏睡状態に陥って、死を待っているという。その病室に役員が行くと、役員は老人の手を取り、「彼の罪を十 字架のあがないによって赦してくださり、天国に入れ永遠の命を与えてください。イエス様の腕が彼を抱きとめ、この死を栄光に変え てください」と祈った。すると、老人はギュッ、ギュッと三度、役員の手を強く握り、自分にはまだ意識があり、確かに祈りを聞いた 、というサインを送った。感激した役員は、廊下に飛び出すと、中年の婦人にぶつかった。「父はあなたを待っていたのですよ」と言 う婦人は、死に行く老人の娘だった。「『もう一度、イエス様の手を握りたい』と父は言っていました。わたしは、イエス様なら、こ の世ではなく、天国で会えますよ、と言ったのですが、父は、頑として、『そうじゃない、月に一度、イエス様は私の手を握ってくれ るんだ。死ぬ前に、もう一度、イエス様と手をつなぎたいんだ』と言い張るのでした」と婦人は教えてくれた。
 ヨハネ第一3章2節「愛する者たち、わたしたちは…御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。」私たちはき ょう、誰のために、イエス様のような人となれるだろうか。

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